海洋系建設会社に就職、阪神淡路大震災を経験

明石海峡大橋の写真 プロフィールと実績

大阪支店管理部に配属

阪神淡路大震災の被害

新入社員として、初の赴任地は関西と四国を管轄する大阪支店だった。
1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が発生した。
大阪市内から神戸までの陸路が寸断され、会社が用意した船舶で大阪市内から神戸に向かった。
重厚な港の岸壁が、おもちゃのLEGOブロックを崩したように壊れ、建物も崩壊していた。信じがたい光景に足がすくんだ。
被災した工事現場の必要物資を船舶から降ろした後は、まだ建設中だった明石海峡大橋の現場に船舶で移動した。
辿り着いた工事事務所も、神戸市内同様に上下水道などインフラが寸断し、壁にはクラックがあったので、夜が明けるのを待ち姫路へ避難した。

震災復興は、日建連などを中心に地域割りが実施された記憶がある。
私が勤務していた会社は、酒蔵が多い神戸市東灘区を中心に震災復興を担当した。住宅街の道路は倒壊家屋のガレキで埋まり、近くの阪神電車の高架は潰れていた。
震災復興の過程で、建設業界の仕組みを学んだ。昼夜を惜しまず働き、日々復興していく姿に感動した。
一方で、TVの報道は避難所や倒壊家屋撤去などが多かったが、その裏で、排泄物健康カネなど人間の本質に関わる問題が必ず起きることも知った。
災害対策はキレイごとだけではできない。

本社(東京)の経営企画部に異動

東京港の工事現場写真

翌年、本社(東京)の経営企画部に異動になった。
震災復興の特需が一巡すると、ゼネコンクライシスと呼ばれた建設不況が大手建設会社を襲った。同業他社の会社更生法申請や合併などが繰り返された。

経営企画部では、通常業務以外に社の業績に関わる秘匿性が高い業務が多かった。
一企業では超えられない政治の壁行政の壁を痛いほど感じ、毎日のように株主経営責務を見てきた。自分にできることはやり尽くしたと思った。

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